というわけで、インジゴカーミンの研究が論文になることになりました。
インジゴは、わしが4年生の時の卒論テーマだったのですが、その時わからなかったことを今回解明するという名目で研究を始めました。学生の田栗君はがんばってくれたのですが、結局よくわからず、論文にするのも一苦労しました。
話は単純です。色素インジゴは植物から採取され、昔から染料として使われていました。上図の(a)に示す人工的なインジゴ誘導体は光励起によりトランス・シス異性化を示すことが知られています。ところが、インジゴ自体は光異性化を示しません。つまり、有史以来誰もインジゴのシス体を見たことがないのです。それはなぜでしょう?というのがこの研究のテーマです。
異性化が起こらない理由として、よく言われるのが、
a) 光励起状態で、NHからC=Oに分子内水素移動するのではないか?
b) 分子内水素結合で、分子構造がトランス体に固定されているのではないか?
ということです。
異性化よりも速い反応速度で分子内水素移動が起これば、異性化は阻害されます。ところが、Elsaesserのグループによってこの説は否定されています。
残るは分子内水素結合説ですが、実際上図(a)に示すように異性化を示す誘導体は分子内水素結合を形成することはできません。それでは水などの水素結合性溶媒を使って、分子内水素結合を阻害してやれば、インジゴは異性化するようになるのでしょうか?
インジゴ自体は水にほとんど溶けないので、ここではインジゴ同様トランス体のみが知られるインジゴカーミン(上図(b))を実験に使いました。実を言うと、インジゴ誘導体に水素結合性溶媒を加えると、蛍光が消光され、異性化の量子收率が低下することが知られています。つまり、意外なことに分子間水素結合は異性化を阻害するのです。さて、インジゴカーミンの場合はどうなるでしょうか?
まずは吸収(赤線)と蛍光スペクトル(青線)を見てみましょう。溶媒を変えてもあまり変化しません。水溶液だとちょっとスペクトルがブロードになっているかな?蛍光強度は水素結合性溶媒の方が弱く、水溶液で一番弱くなります。
では、過渡吸収スペクトルを見てみましょう。上図はメタノール(MeOH)溶液の過渡吸収スペクトルです。S1状態の吸収が見えていると考えられ、T1やシス体のような過渡種は見えていません。基底状態の吸収のブリーチもほとんど見えません。これは励起状態の吸収と重なっていて、励起状態の吸光係数の方が大きいからだと考えられます。
上図は水溶液の過渡吸収スペクトルです。(560〜600nmは励起光の散乱が強いので、カットしてあります。)溶媒によって励起状態の吸収は大きく変化することがわかります。水溶液の過渡吸収スペクトルはブロードになり、短波長シフトしているようです。そのため、620nm付近に基底状態の吸収ブリーチが若干現われています。
上図は、時間分解能30fsで測定した635nmポンプ・プローブ信号です。水溶液だけブリーチの時間変化を測定しているので、吸光度が減り、負の信号が現われています。分子内振動によるビートが現われていますが、どの溶液でも位相が揃っていることがわかります。
上図は、時間分解能30fsで測定した635nmポンプ・プローブ信号のピコ秒時間変化です。励起状態の吸収の減衰が溶媒に依存して大きく変化している様子がわかります。
水溶液と重水溶液でのポンプ・プローブ信号の時間変化です。基底状態の吸収ブリーチは水溶液の方が速く回復していくことがわかります。このことは、溶媒との水素結合がインジゴカーミンの励起状態の寿命を変化させている可能性を示唆しています。
水溶液での励起状態の寿命を測定するため、470nmでの過渡吸収の減衰と、610nmでのブリーチの回復を測定しました。その結果S1寿命は約4.0psだということがわかりました。
励起状態寿命が溶媒の何に依存しているのか調べるため、まず粘度に対してプロットしてみました(a)。するとバラバラになりました。次に溶媒の経験的な極性のパラメータEt(30)に対してプロットしてみると(b)、わりといい相関があることがわかります。これはインジゴカーミンの励起状態寿命が溶媒の極性や水素結合性に依存することを意味しています。
時間分解能30fsで測定した635nmポンプ・プローブ信号には分子振動によるビートが顕著に現われているので、これをフーリエ変換してみました。上図はフーリエ変換スペクトルの実数部です。すると、水素結合性溶媒中の260cm-1付近のピークが非水素結合性の溶媒中ではダブレットになっていることがわかりました。
いったい何が起こっているのでしょう?
そこで、定常状態で低波数の共鳴ラマンスペクトルを測定してみました。すると、フーリエ変換スペクトルと同様に、水素結合性溶媒中の260cm-1付近のピークが非水素結合性の溶媒中ではダブレットになっていることがわかりました。615cm-1付近のピークも溶媒に依存して変化していることがわかります。これらは、溶媒に依存して基底状態の分子構造が変化していることを示唆しています。
水素結合性溶媒中では、分子内水素結合が切れて分子の平面性が失われているのでしょうか?
ところが、高波数の指紋領域を見てみると、ほとんど溶媒依存性がないことがわかります。特に1705cm-1付近のモードはC=O伸縮振動に帰属され、水素結合に敏感なはずなのですが、溶媒依存性を示していません。
そこで、共鳴ラマンスペクトルの温度依存性を調べてみましたが、どのモードもほとんど温度変化しませんでした。これは、基底状態ではインジゴカーミンは水素結合してない可能性を示唆します。
励起状態のラマンスペクトルはうちでは測定できないので、蛍光強度の温度変化を調べてみました。すると、水素結合性溶媒の方が無輻射失活の活性化エネルギーが小さいことがわかりました。
これらの結果を総合すると、以下のような励起状態緩和のスキームが推測されます。
インジゴカーミンの基底状態の分子構造は溶媒に依存するが、基底状態では水素結合性は弱い。励起状態ではNH基とC=O基の間で電荷分離が起こり、水素結合性が強まる。非水素結合性溶媒中では、励起状態で分子内水素結合が形成され、分子の平面性が保たれ、寿命も比較的長い。これに対し、水素結合性溶媒中では、分子間水素結合により分子内水素結合が切られ、分子がねじれる。このねじれが無輻射失活のチャンネルを開き、蛍光消光の活性化エネルギーも低くなる。無輻射失活により分子は基底状態にもどるが、シス体はトランス体に比べてエネルギー的に不安定であり、両者の間にエネルギー障壁もないので、分子はすべてトランス体にもどる。