研究紹介 (少し化学や科学に詳しい方への解説)

光化学、レーザー科学

はじめに

 光吸収により生成する電子励起分子は、植物の光合成や太陽電池のような光エネルギー・光物質変換、また多くの光機能発現過程等において重要な役割を果たしている。 しかし、光利用に用いられるような数十以上の原子からなる分子系には、① 高位電子励起状態から最低励起状態への迅速な緩和(Kasha則)や、② 集合系における多数励起分子間の高速励起子消滅(annihilation)光エネルギー(光量子や光子の数)利用に対し大きな制限が存在する。更に、③ 通常の光吸収では1光子光学許容状態のみが遷移可能であり、多様な電子状態を有効に利用することも困難であった。 光利用に対するこれらの制限の超克は、多様な新規光機能物質系の継続的開発や喫緊の課題とされる光物質変換・光エネルギー利用の革新的発展のためにも重要な基礎的課題であるが、今まではこれらの解決は非常に困難なものと考えられてきた。 我々の研究室では、これらの三種の制限を超克する手法として、多重・多光子励起、電子状態変調、また、分子の協調的応答、集合体設計等の方法を開拓・発展させ、従来の光利用分子系の開発の制限を超える分子系の光応答の学理構築と応用を行い、今後の光利用関連諸課題の解決に向けた共通基盤の確立を目的としている。

 このために、以下の3点から研究を展開している。(1)光エネルギー・光物質変換に重要な役割を果たす光誘起電子移動や励起エネルギー移動など、また結合生成や切断などの光機能発現に深く関わる反応素過程をレーザー時間分解計測法により測定し、その反応を支配する因子を解明することによって、より高性能の分子・分子集団系の合理的設計指針の獲得を目指す研究、 (2)レーザー光を用いることにより通常の光では起こすことのできない反応や過程を誘起し、新たな光機能や応答を開拓・開発する研究、(3)光機能発現分子の周囲環境を1分子ごとにナノメートルスケールで測定し、分子-環境の相互作用を探る研究。これらの研究を総合し、革新的光エネルギー・物質変換系や新規光機能分子システムの構築、その操作手法の確立を目指している。   

          

電子励起状態分子の特徴 - 光化学

  光励起によって生成する励起分子は基底状態分子と比べ、非常に高いエネルギーや異なる電子配置を持っている。 多くの化学結合の強さは,数10から200 Kcal / mol程度の範囲にあり,これらの化学結合の強さと同程度のエネルギーが光吸収によって与えられる(例えば,350 nmの波長は81.7 Kcal/molに相当する)。 したがって,結合の開裂や新たな結合の生成は,特徴的な光化学過程のひとつであり熱化学反応とは異なる特徴的な反応を引き起こすこともできる。 分子光メモリーへの応用が期待されているフォトクロミック反応や視覚に深く携わるレチナールの光異性化なども、光照射で生じる化学反応である。  また、励起分子は基底状態分子と比較して,他分子との電子の授受を行い易いという特徴も持つ。 単純に考えれば,励起分子のイオン化電圧は最低励起状態において最高被占軌道(HOMO)と最低空軌道(LUMO)のエネルギー分だけ低く,電子親和力はこのエネルギー分だけ大きくなる。 そのため励起状態では,基底状態で起こらない電子移動過程も起こる事が多い.光照射によって生成する電子移動過程(光誘起電子移動)は植物の光合成反応中心で、有機光電導体、太陽光発電などの重要な反応素過程であり、 基礎的な研究のみならず光エネルギー変換や分子光電変換デバイスなどの立場からも数多くの研究がなされてきた。 我々の研究室においても、基礎的な電子移動のみならず、人工的に合成された光合成反応中心のモデル化合物の電子やエネルギー輸送、 有機光電導体やEL系の電荷輸送等を対象に光誘起電子移動過程の機構解明、新規分子設計に関する研究を行っている。

レーザーを用いた光化学反応過程の研究 - その位置付け

 光吸収によって生成する励起一重項状態の寿命は、せいぜい100 ns(10-7秒) である。 短い時間で進行する化学反応を直接測定するために、時間幅の短いパルス光で光照射を行いその時間変化を測定する時間分解測定法が、光化学の研究分野で開発され応用されてきた。 化学で用いられる多くの計測手法は物理分野から応用されたものが多い。しかし短時間時間分解分光手法は、数少ない化学分野の研究者が開発・発展させてきた測定手法であり、 我々の研究室も長年に渡りこの分野の発展をリードしてきた。電子励起状態では、先述の電子移動の他、光イオン化、励起エネルギー移動、陽子移動、水素原子移動などの反応素過程が進行する。 電子移動や陽子移動などの素過程は励起状態のみならず基底状態でも進行するものも多い。光照射によって反応の時間原点が決定できる光化学反応は熱化学反応と比較すると、 反応の時間変化を高い時間分解能と精度で測定できるという利点を持つ。したがって光化学反応素過程の時間分解手法による研究は、一般の多くの反応素過程の反応機構・反応速度、 それを支配する因子の解明といった反応化学の研究対象としても位置づけられてきた。分子間化学反応速度や反応生成物の選択性の決定には、分子間の相互の配置、分子間距離、エネルギーレベル、 遷移状態の構造、などが重要な役割を果たす。したがって、多くの化学反応素過程に対して、高速時間分解手法を用いて反応ダイナミクスを測定し、反応機構・ 反応速度を支配する因子を解明することは、 効率的な化学反応の開発、環境低負荷なプロセスの作成のためにも重要な基礎的な知見を与える。

レーザーを用いて化学反応を制御する

 近似的には、化学反応速度定数は、k=A・exp(-ΔE/kT)と与えられる。AやΔEの中には、分子間の相互の配置、分子間距離、エネルギーレベル、 遷移状態の構造などの因子が含まれるが、Aの中で最も大きな因子は揺らぎである。原子間の化学結合の振動は分子の構造の揺らぎを与える。溶媒分子が衝突すればこの振動の位相も変化するとともに、 エネルギーも変化する。溶媒の配向が変化すれば、溶質のエネルギーも変化する。したがって揺らぎの平均的な周波数(時間の逆数)は、反応速度の最大値を与える。揺らぎは全ての変化の基本を与える。 しかし多数の分子を対象とする場合には、個々の揺らぎは基本的にはランダムに進行するので、個々の反応分子の反応の時間を決定することはできない。 したがって一次反応では、時間とともに指数関数的に反応物が減少したり生成物が増加したりする。しかし揺らぎの位相をそろえることができれば、化学反応を制御することが可能である。 たとえば、多数の同じ分子のある特定の振動を位相をあわせることができれば、その結合が伸びきったりあるいは縮んだりしたところで、 光を照射して結合を切断することもできる。このような効率的な化学反応の方法は、コヒーレントコントロールといわれ究極的な化学反応の制御法として研究がなされている。

レーザーを用いて新たな物性、構造を作る

顕微鏡下で極微領域に超短パルスレーザーを集光し光子の密度を増大させると、上記のような多光子過程はより効率的に進行する。更に多光子反応は光子密度の高い集光位置のみで起こるため、光化学反応にナノレベルの3次元空間選択性も同時に与えることも可能となる。局所多光子反応は次世代ナノ光プロセス技術として注目を集めており、多光子吸収により液体のモノマーを局所的に重合させ硬化させる微小構造作成法は次世代マイクロデバイスへの展開が期待されている手法でもある。我々は、 1. 超短パルスレーザー顕微鏡システムの開発 2. 微小領域で誘起される多光子光反応の理解とその先駆的応用 を目指し研究を行っている。これまでに開発したシステムでは顕微鏡対物レンズ(x100)で35fsのパルス時間幅を達成すると共に、4光子蛍光の観測等を行いナノ材料の高時空間分解分光分析や、単一分子レベルの分子分光、4光子重合によるマイクロ光造形、フォトクロミック分子の多光子異性化反応制御への応用等を行っている。また蛍光相関分光法を用い、単一分子レベルの分子観測を行うとともにレーザーによる物質トラッピング(光学ピンセット法)を用いて、新たな分子集合体、反応場の構築も行っている。