研究紹介

研究概要紹介 (構造揺らぎダイナミクス研究グループ)

はじめに

 レーザー光は太陽光や電球・蛍光灯などの光とは異なる多くの性質を持っています。遠くまで進んでも光が広がらないことは多くの方が知っている性質ですが、 非常に短い時間の間だけ点灯するパルス光を作り出せるという性質もレーザー光の大きな特徴の一つです。レーザーではありませんが、写真を撮影するときに用いるストロボ光もパルス光の一つです。 この点灯時間は10-6秒(百万分の1秒)程度ですが、レーザーでは10-15秒(1フェムト秒:fs、千兆分の1秒)程度の時間だけ光るパルスも作成できるようになっています。 1フェムト秒という時間は1秒間に地球を7周半も走る光が、わずか0.3マイクロメーター(髪の毛の太さの1/100くらい)の距離を走る刹那の時間です。1秒と10-15秒の比は、3200万年と1秒の比に対応します。 まだ人類がこの地球上に誕生しないような太古の昔から現在に至るまでの年月の中のわずか1秒に対応する時間が、1秒に対する10-15秒という時間です。 このようなレーザーの短いパルスを利用した分子の動きの観測や新たな性質の開発についてお話しします。
 このHPでは光化学の研究の基礎的な位置づけについても述べてありますが、これは化学や科学について、ある程度専門的な方を想定しています。

分子の世界の時間



表1. 分子の時間スケール

表1には、分子の世界で起こるいろいろな反応過程とその時間スケールを示しています。 多くの過程が非常に高速に進行することがわかります。一般に化学反応は高速に進行するものもあれば、非常に遅い速度を持つものもあります。 遅い反応では化学反応が進行する条件が整う確率が小さいために、ゆっくりと反応が進行します。たとえば、たくさんの小さな子供を一列に並べて写真を撮ることを考えて下さい。 一人一人の子供は、それぞれ勝手に動き回りなかなかちゃんと並んではくれません。ある子供がちゃんと並んだら、他の子供は別の所に動いています。カメラのシャッターを押して写真を撮るのは、 ほんの一瞬ですがシャッターを押せる条件が整うチャンスは、非常に稀にしか現れないことが想像できます。遅い反応は、まさに条件が整う確率が小さいだけで、 実際に分子の中で化学結合が切れたり生成したりする過程は、10-12秒より短い時間で起こる場合がほとんどと考えられます。表1に示した反応の多くは、 実際に条件が整った場合、あるいはすぐに条件が整うような場合の反応の時間を示しています。実際の化学反応は、条件さえ整えば非常に高速に進行することがわかります。さて、分子の中では化学結合によって結ばれた原子と原子が絶えず振動しています。これはあたかもバネの両端に結びつけられた重りが振動しているように考えることも可能です。したがって、分子の大きさや長さはいつも変化しているのですが、たくさんの分子から構成されている我々の身の回りの物はそんなに激しく伸びたり縮んだりはしていません。 多くの分子の中では、伸びている瞬間の分子もいますが縮んだ瞬間の分子も同じくらいいます。結局多数の分子の足し合わせとしては、いつも伸びたり縮んだりすることなくほぼ一定の長さになります。 しかしもし全部の分子の振動を同期させることができたら、そのときは多くの分子からなる物質でも伸びたり縮んだりするはずでしょう。 先の小さな子供の例えで言えば、子供の扱いに慣れたベテランの先生が、小さな子供たちを一斉に上手く並ばせることに対応することになります。
この分子振動の一周期の時間は10フェムト秒から100フェムト秒程度です。したがってフェムト秒程度の短い時間のレーザーパルスを利用すると、 分子の振動をリアルタイムに知ることができます。机や茶碗のような大きな物を一斉に伸び縮みさせることはできませんが、パルスレーザー光が照射されている部分では 、同期した分子の伸び縮みを観測することができます。図1には25フェムト秒のパルス幅を持つレーザーを用い3パルスフォトンエコー法といわれる方法によって測定された、 高分子フィルム(PMMA)中の有機色素分子(ナイルブルー)の信号です。規則的に現れているちょうど色の濃いところが、分子の振動に対応しています。またこの分子の振動に対応した信号を消したり、 強めたりすることも可能です。このような過程を利用して、新たな化学反応の制御法を探る研究も行っています。

図1.ナイブルー/PMMA系の(30K)のフォトンエコー信号

1.フォトンエコーについて
2.コヒーレント振動について
3.その他の研究の内容

レーザーで光化学反応過程を測る

 光のエネルギーを分子が受け取り(光吸収)、エネルギーをたくさん持った状態(電子励起状態)を形成して起こる反応は光化学反応と呼ばれています。 たとえば植物の光合成では、光エネルギーを利用して化学物質が合成されますし、太陽電池では光のエネルギーが電気エネルギーに変換されています。 また、私たちの視覚でも光吸収による分子構造の変化が重要な働きをしています。このような過程は、非常に短い時間で進行します。 先述のような短いパルスレーザー光を用い、分子が光を吸収した瞬間から変化していく過程を直接時間経過とともに測定(レーザー時間分解計測法)することによって、 光化学反応のメカニズムを知ることができます。たとえば植物の光合成では、光の吸収を経て生成した電子励起状態から電子が放出され、 巧みに配列された分子に沿ってその電子が10-10秒程度の非常に短い時間で運ばれていくことが、このような測定によってわかってきました。 まさに分子レベルの太陽電池であり、この効率も99%以上の優れた特性を持つことがわかっています。このような植物の光合成を人工的に創ろうという研究も広く行われています。 設計・合成した分子の機能を測定するためにも、このようなレーザー時間分解計測法は広く用いられており、測定結果を解析し新たな分子設計指針を探るために利用されています。
 図2には、このような実験に用いるフェムト秒レーザーシステムの写真と光学系の図を示しています。雑然と並んでいるように見える光学部品が、 実は右図のように、きちんと配列されレーザー光を試料の位置に導いています。

図2.フェムト秒レーザー実験システムとその光学系図

 時間分解による化学反応研究の一例を図3に示します。これは電子を与えやすい部分(電子供与性部分、D)と電子を受け取りやすい(電子受容性性部分、A)が 結びついた構造を持つ分子(D-A)の結果です。光を吸収すると、D-Aの構造が、D- A といった電荷分離状態に変化します。 すなわち光による物性のスイッチが可能な分子の一つです。図はピコ秒パルスレーザーを用いて過渡吸収スペクトルと呼ばれる測定を行ったものです。 レーザーが照射されてからの変化を、物質の同定が行いやすいスペクトルとして表しています。 また図の右に書いてある数字はレーザーが照射されてから観測するまでの経過時間を示しています。 レーザーが照射直後(0-20psくらい)では500nmあたりに極大を持つスペクトルが観測されています。 これは、まだ電荷分離していない分子の状態を示しています。時間の経過とともに、450nmくらいの信号が立ち上がり、併せて550nm付近にくぼみが観測されます。 これは電荷分離状態のスペクトルです。このスペクトルの時間変化を解析すると、17 ps (1 ps =10-12秒)で分子の性質が、(D-A)*からD- Aへと変化していく過程を直接決定できます。


図3.分子のレーザー光励起による物性変化の観測例
(ピコ秒過度吸収スペクトル測定)

1.芳香族高分子化合物の光電導初期過程
2.レーザー装置の紹介

レーザーで探る分子の新たな性質、レーザーで作る新たな構造

 短い時間だけ光るレーザー光には、単に点灯時間が短いという特徴以外に、もう一つ大きな特徴があります。それはこの短い時間の中に、多くの光を閉じこめられることです。写真のストロボ光も大変まぶしいのですが、光の総量は蛍光灯をつけた夜の部屋の1から10秒くらいと同じくらいにすぎません。短い時間の中にぎっしりと光が詰まった状態になっているだけです。しかし時間が短くなった分、瞬間的な強度はとてつもなく大きくなります。パルスレーザーでは、1012ワット(普通の電球の数100億倍以上)もの瞬間出力をもつ装置も開発されています。このようなレーザーを用いると、通常の光や熱では起こらないことを物質に起こさせることができます。レーザーメスやレーザー加工装置をご存知の方も多いかも知れませんが、これには主にパルスではない連続発振型のレーザーが用いられています。しかしパルスレーザーではもっと高度な加工ができます。例えですが、アイスクリームの天ぷらは、衣をつけて暑い油に一瞬入れればできますが、低い温度の油に長時間つけておけば、アイスクリームが溶けてしまいます。このようなパルスレーザーを用いると、まさに物質に熱が伝わらない間に局所的に狭い空間部分を加工することも可能になります。  また瞬間的な強度の大きなレーザー光での中では、全く異なる化学反応が進行することもあります。光強度が弱い場合には、通常分子は1つの光子しか吸収しません。光子は、光の波長λとプランク定数h、及び光の速度 Cから、 E=hC/λ のエネルギーを持っています。しかし、レーザー光のように光強度が大きくなると、一度に2個、3個の光子を吸収することも起こります。したがって、分子は、Eの2倍、3倍といった多くのエネルギーを一度に受け取ることになります。これを多光子吸収過程と呼びます。たとえば、普通の光では化学結合が切れない分子でも、強度の大きなパルスレーザー光を用いた場合には、多光子吸収によって高いエネルギー状態を形成し化学結合を切断し新たな分子が生成することもありますし、全く異なる反応が進行する場合もあります。このような多光子反応スイッチングの一例を以下に示します。

多光子光化学反応

 光照射によって分子内で化学結合の組み替えが起こり(光異性化)、吸収スペクトルの可逆的な変化が起こる現象はフォトクロミズムと呼ばれます。 両異性体が熱的に安定である場合には分子光記録素子としての応用も可能であり、現在の記録密度を100万倍程度向上させることが期待されています。 ピコ秒程度の非常に早い時間で進行するフォトクロミック反応をレーザー分光法によって直接観測し、 機能分子の設計指針を材料開発の研究グループに提供することも重要な研究の一つですが、レーザー光を用いたときに初めて起こる新規現象を開拓することも重要な研究課題です。 レーザー光の短パルス性と高輝度性を利用した場合、非常に短い時間の間に高密度の光子を系に照射することができます。 その結果、分子を分解せずに非平衡的な高温状態を生成したり多光子吸収により特異的な化学反応を進行させることも可能になります。 このようなレーザー多光子反応を利用するとフォトクロミック分子の反応が著しく促進(100-1000倍)されることが最近の我々の研究で明らかになりました。 大きな光反応収率を持つことは分子メモリーとして必須の条件ですが、 逆に光照射によって記録が消えてしまうため非破壊的に光で読み出すことができないというジレンマに陥ります。 上記の多光子反応手法を用いると、読み出しのときには弱い光を用いるため記録が保持でき、強度の高いレーザー光では記録の消去が可能となるため応用的にも注目されています。 また光励起状態における分子振動がコヒーレントな信号として現れるフォトクロミック分子系も観測されています。 結合の伸び縮みのタイミングに合わせて光照射を行うことによって、結合の開裂をより効果的に行わせることも可能であり、新たなレーザー反応制御法として研究を展開しています。

多光子フォトクロミック反応について

ナノメートル領域での光化学反応の観測とレーザー制御

顕微鏡下で極微領域に超短パルスレーザーを集光すると、上記のような多光子過程はより効率的に進行します。また多光子反応は光子密度の高い集光位置のみで起こるため、 光化学反応にナノレベルの3次元空間選択性も同時に与えることもできます。この局所多光子反応は次世代ナノ光プロセス技術として注目を集めており、 多光子吸収により液体のモノマーを局所的に重合させ硬化させる微小構造作成法は次世代マイクロデバイスへの展開が期待されている手法です。我々は超短パルス光を顕微鏡下に導入できるシステムの開発を行い、 微小領域で誘起される多光子光反応の理解とその先駆的応用を目指し研究を行っています。これまでに開発したシステムを用いてアントラセン微結晶に近赤外フェムト秒パルスを集光すると、 右図のように集光スポット近傍でのみ4光子吸収による蛍光が観測され、高次多光子吸収が起こっていることが分かります。このシステムを用いて、ナノ材料の高時空間分解分光分析や、単一分子レベルの分子分光、 4光子重合によるマイクロ光造形、フォトクロミック分子の多光子異性化反応制御への応用等基礎的な観点から新たなナノ光化学研究を展開しています。